16歳で英国へ渡り、18歳であのリバプールからオファーを受けた。
にわかには信じ難い過去を持つ男がいる。
「サッカーは下手ではなかったですね」
そう言って笑ったのは、今季まで11年に渡り横浜F・マリノスで歴代監督の通訳などを務めてきた松崎裕(ゆたか)さん。
45歳。現在の割腹のいい姿からは想像もつかない。山あり谷あり、その人生は起伏に富んだもの。
ひょっとしたらプレミアリーガー日本人第1号だったかもしれない。驚きの事実に興味を持ち、その人生にじっくりと耳を傾けた。
■横浜F・マリノス通訳の松崎裕さん、45歳
鎌倉市出身。8歳から地元の「よりともSC」でサッカーを始めた。中学にサッカー部がなかったため、横浜のY.S.C.C.ジュニアユースに入団し、プレーを続けた。技巧派のトップ下、マラドーナの影響を色濃く受けた。
「地元のレンタルビデオ屋の店長さんが作ってくれた映像を繰り返し見ていました。うまいしカリスマ性もすごい。何、この選手って。同じような背丈だったこともありました」
中学を卒業したら海外へ出ようと思い立った。
「キャプテン翼世代で、その影響も大きかった。なんの根拠もないですが、僕が日本人で最初のプレミアリーガーになってやろうと考えた」
中学3年だった1995年は、まだインターネットが世間には広がっていなかった。ヨーロッパの事情がよく分からなかった。
「イギリスも高校サッカーが盛んなんだろうなって思っていた。見学に行ける距離でもなく、留学エージェントを使って“フットボール”の強い高校を紹介してもらった。それで見つかったというので、中学卒業後の夏にイギリスへ渡りました。16歳でした」
■英語はイエスしかしゃべれない
行った先であぜんとした。入学したグロスターシャ州にあるウィクリフ・カレッジは、フットボールはフットボールでもラグビーの強豪校だった。
「参ったなって。英語はイエスしかしゃべれなかった。キャプテン翼で「ボール一つあれば世界中の人たちと友達になれる、言葉なんかいらない」というようなことを言っていたから。それを真に受けてイエスだけで行ったら、やはり必要だった。意思疎通、コミュニケーションがすごく大事だった」
辞書で単語を調べ、担任の先生に手紙を書いて渡した。
「僕はサッカーをするためにこの国に来ました。どこか近くにクラブチームはありませんか?」
幸いにも先生の友人がグロスター州にある地元クラブのオーナーと友人関係だった。
そのクラブは「フォレストグリーン・ローバーズ」。プレミアリーグから数えて6部相当。それでも1万人ほど収容できるスタジアムを構えていた。練習参加から始め、すぐユースチームへの入団が認められた。
シーズン開幕を控えたある日、トップチームから突然、声がかかった。
「ちょっとおもしろい選手だからプレシーズンマッチに使いたいと言われた」
学校までタクシーが迎えに来てくれて会場へ入った。ベンチスタートとなった中、試合前には「ユタカ・マツザキ」と名前が読み上げられた。盛り上がっていた会場は「一体誰?」と静まったという。
■ファーストプレーで観客を沸かせた
後半始まってすぐ、コーチから出番を告げられた。スローインからのリスタートの場面でピッチに入った。いつものトップ下へ。そのファーストプレーだった。投げ込まれたボール、その背後から相手が激しくつぶしにきたのが分かった。
バウンドしたボールを利用し、ヒールで相手の背後へワンタッチで浮かせた。クルリとターンをし、相手と入れ替わった。すぐさまGKの立ち位置が見えた。間髪入れず左足でGKの頭上を抜くドライブシュートを放った。
「カーン」とポストに直撃。その直後、観客席は「ドカーン」と沸き上がった。
「なんだ、コイツは!」
ワンプレーで地元ファンの心をわしづかみにした。このトップデビューから人生は大きく動きだした。
明るいキャラクターですぐにチームメートとうち解けた。日本人は誰もいないことが幸いし、語学力も一気に磨きがかかった。日常のコミュニケーションが高まれば、サッカーも向上した。毎試合のようにスカウトが見に来る。常に誰かに見られていたし、チャンスを感じ取っていた。
■「ザ・フットボールアカデミー」入団
実際、クラブにはオファーが届いていた。イングランドサッカー協会が全面支援する「ザ・フットボールアカデミー」からだった。国内からえりすぐりの選手を集め、卒業生は95%がプレミアリーグに進むというプロ養成所だった。
ただフォレストグリーン・ローバーズも自分たちのトップチームへ上げたかった。だからオファーは伏せられたままだった。
何度となく「どこかオファーは来ていないか?」と問いただすうちに、監督から「実は…」と明かされた。しかし来季の選手枠はもう閉め切られていた。
「あきらめ切れないから翌日、そのプロ養成所に出かけました。たまたま隣町だった。セキュリティーもすごいところでしたけれど、門番に「練習に来た者です」と言って入れてもらった」
ズカズカとクラブの中に入っていくと、監督の姿を見つけた。顔見知りだったことも幸いし、入団を直談判した。
「5分だけ見てやる。ダメなら帰ってもらうよ」
限られた時間の中、やり切った。シャワーを浴び終えると、監督室に来いと呼ばれた。途中の通路で1人の選手とすれ違った。
「部屋に入ったら、おめでとうと言ってもらえた。一方ですれ違った選手がはじき出されていた」
1チーム20人ほどの選ばれし者だけの精鋭軍団。誰かが加われば、必ず誰かが外れることになる。厳しい現実を、身をもって知った。
■クラブハウスで突然声をかけられた
チームメートはアンダー世代のイングランド代表に入っている選手ばかりだった。約1万のクラブ、高校のチームが集う全国大会で常に優勝していた。決勝戦は5、6万人が入るプレミアリーグのスタジアムが満員になるほどだったという。
そこでも頭角を現し、出場機会を得た。周りの選手がうまいから、また自らも輝くという好循環。全国大会では2連覇も果たした。
「みんな体がでかくて、強くてフィジカルはすごかった。僕はスピードがあったし、両足が使えるし、人を使うプレーもできた」
そして18歳の秋、リバプール・ユースとのトレーニングマッチがあった。試合前のクラブハウスでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたら、初老の男性に声をかけられた。
「今日は試合に出るの?って聞かれた。ケガ明けなので、少しは出ると思いますけどと返したら。“見ているよ、頑張ってね”と。誰なんだろう、この人と思った」
その日は絶好調だった。1得点1アシストを決め、チームも勝利した。
「これが本当にリバプール?と思ったくらい。スポーツ店で買ったユニホームを着ているだけの選手たちかと思えたほど、自分は調子が良かった。シャワーを浴びて帰ろうとしたら、先ほどの男性が声をかけてきた。“申し遅れました、リバプールのトップチームのスカウトです。プレーを見させてもらいました”と。そこで契約を結びたいと言われました」
■労働ビザが壁となり契約は白紙
青天の霹靂(へきれき)とはこのこと。ただ大きな壁が立ちふさがっていた。
労働ビザの問題だった。見せられた用紙には、母国の代表戦で70%以上に出場していることという規定があった。
「これはダメだ、ビザは下りないわと。白紙になってしまった」
そもそもの手違いは、ザ・フットボールアカデミーに所属していたことだった。ここは自国のプロ選手を養成する機関であり、外国籍選手は入れない。しかしあまりに流ちょうに英語を話すため、英国生まれだと勘違いされていた。まさにうそのような本当の話である。
あきらめきれなかった。法律が変わることを期待し、新たなオファーを待った。「練習生」としてザ・フットボールアカデミーに3年目も在籍することができた。しかし状況は何も変わらなかった。
プレミアリーガーは断念し、20歳で帰国した。さまざまなJ1クラブの練習に参加してみた。しかし入団にはたどり着けない中、練習中に単独で膝をひねった。重傷だった。プレーができなくなり、夢ははかなくも消えた。
■U-17日本代表での通訳初仕事
選手の道は絶たれた。だが思わぬ形で新たな道が現れる。サッカーの経歴と語学力を買われ、日本サッカー協会から通訳のオファーが舞い込んだ。
2001年、U-17ワールドカップ(W杯)トリニダード・トバゴ大会に出場する日本代表チームをサポートした。21歳だった。
「こんな僕でも役に立つんだと思った」
その後、ジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、大分トリニータなどでも通訳を務め、コーディネーターなどもこなした。さらに地元鎌倉に帰りカフェ店を3年ほど経営した。思い立ったらすぐ行動。「後先を考えない。周りが困っちゃうタイプです」。
2014年、シティ・フットボール・グループ(CFG)が日産自動車と提携したことに伴い、横浜F・マリノスからオファーが届いた。
実は英国にいた17歳の頃にオファーを受け、マリノスの練習に3日間参加したことがあった。松田直樹、中村俊輔らそうそうたるメンバーと一緒に練習したが、その時は加入には至らなかった。それだけに縁を感じた。
持ち前のキャラクターを生かし、さまざまな現場仕事に従事した。18年になると、名将アンジェ・ポステコグルー監督の通訳となった。19年に15年ぶりのJ1優勝に黒子として貢献した。マリノスでは11年過ごし、リーグ優勝2回など多くの喜びを味わった。
「22年にもリーグ優勝しましたが、19年の優勝はタイトルからだいぶ遠ざかっていたこともあって格別でした。サッカーの内容も楽しかったし、もう最高でした」
一方で、今季はJ2降格が現実味を帯びるほどチームは低迷した。仕えていたスティーブ・ホーランド監督、さらにパトリック・キスノーボ監督も解任となり、6月以降は通訳する人物がいなくなった。それでも全体の物事を俯瞰(ふかん)して見る良い時間になったと前向きに捉えている。
「どの選手も、どの監督も、どのスタッフも、本当にこの11年間携わった方々は僕にとっての財産。ここに入れてくださった当時の強化部長にも感謝したいですし、楽しい思い出しかない。今年は今年で、僕にとってはめちゃくちゃ楽しかったです」
そう笑い飛ばせるたくましさが、この人最大の持ち味だろう。
■人生とは選択と決断の繰り返し
18歳でリバプールからオファーを受けた男は、20歳にして現役にピリオドを打った。「目の前が真っ暗になった」中から、通訳という新たな道をつかんだ。
生きていくために必死に磨いた語学という武器。それは日々の生活を懸命に生きてきた証しに他ならない。
人生とはまさに旅である。1つの道が消えたならば、また違う道を探し、歩んでいく。選択と決断の繰り返しに他ならない。立ち止まる時もある。それでもまた気持ちを立て直し、自問自答しながら前へと歩を進める。
それが生きるということだ。
「何が起きても明日は来る。だから後悔はしたくない。僕の中では無駄なことは1つもないし、自分の理解の仕方だけだと思う。僕の中では経験になっていると思えば、それは次に生かせる。だから失敗なんて僕の中にはない」
人生は不可逆的でやり直しが利かない。だからこそ尊い。
後悔がないという松崎さんだが、プロ選手に目前でなれなかった。心のしこりは本当にないのだろうか?
「強いて言えば、プロのサッカー選手になっていたら、僕はどんな人生を送っていたんだろう?と思うことはあります。でも周りから“お前はスキャンダルで終わっていたよ、だから通訳で良かったじゃん”と冗談めかして言われます。実際、イギリスに行っていなかったら、通訳の話もないし、本当に無駄はない。あの時、あの場所にいたからこその今なんです」
■「明日は何が起こるんだろうと」
2001年、稲本潤一がアーセナルに入団。日本人初のプレミアリーガー誕生となった。「そうなんだ」。“人は人”と嫉妬心は微塵もなかった。
地球は自転する。その24時間は世界中、誰しも平等に訪れる。その時間を無駄にしない、どれだけ楽しんで過ごすかが人生の生きる意味だとも言える。
「くよくよしても良いことはない。限りある人生、もったいない」
愛されキャラの「ゆっち」は、また新たな場所で新たな旅を続けていく。
「同じ日がないというのが僕にとっては刺激なんです。明日は何が起こるんだろう、と」
その笑顔がまぶしかった。
【佐藤隆志】(ニッカンスポーツコム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)











