FC町田ゼルビアが連覇を狙ったヴィッセル神戸を3-1で下し、初優勝を飾った。FW藤尾翔太の2得点にFW相馬勇紀もゴールを挙げると、強度の高い攻守でJリーグ界の“ラスボス”をのみ込んだ。町田は優勝賞金1億5000万円も獲得した。
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Jリーグ60クラブ中、少年サッカーチームが母体となったのは町田だけ。1977年(昭52)に「FC町田」のタネをまいた守屋実さん(75=同クラブ相談役、NPO法人アスレチッククラブ町田理事長)は、チームと一緒に国立のピッチで歓喜した。「感無量です。今まで関わった人の代表としてここに立たせてもらった。カップも持たせてもらったけど重かった」。
町田市の元小学校教員で歴史の生き証人だ。子どもたちの受け皿としてトップチームは89年に誕生。初代代表の義兄、重田貞夫さん(2011年死去)とともにクラブの活動を支え続けた。Jリーグブームの95年には「町田にJリーグを実現する会」を発起。守屋さんは自ら先頭に立ち、Jクラブを目指すと宣言した。
「みんなに大笑いされた。このポンコツチームが? って」。現実は厳しかった。「誰も言うことは聞かない。それぞれがやりたいプレーをしてばかり。連れてきた監督も追い出しちゃうぐらいだった」。東京都でも勝てない。それでも03年にNPO法人を立ち上げ市民クラブとしてプロ化へのかじを切った。02年から6年間は監督も務めた。
「行き先はあったけど大海原を小舟でこいでいるようなものだった。それが途中から(協力者が現れると)小舟に動力が付いて、だんだんとスピードが付いた。だけど本当に遠いなと思った。とにかく関東まで行こうと思った。そこまで言ったら自分の役目は終わりにしたいと思った」
05年に東京都1部リーグで優勝を果たし、関東2部リーグへの昇格を決めた。08年に株式会社ゼルビアが誕生し、同年に戸塚哲也監督のもとでJFL昇格が決まった。10年、相馬直樹監督のもとで天皇杯に初出場。さらに11年にJリーグへの入会が承認され、J2参戦が決定する。1つずつ地道に階段を上った。
「市民運動だからやめるにやめられなかった。地域のみなさんにやるぞって言って、地域のみなさんに応援してもらったわけじゃないですか。うそつきになっちゃう。言っていることには誠実でありたかった」
サッカーを街のシンボルにしたかった。町田市民は地方から来た人たちの「寄せ集め」。アイデンティティーがないと感じていた。「バラバラだった町田市民をなんとか1つにできないか。スポーツコミュニティーを作ることだと思っていた。俺の街にはゼルビアがある、そういうものが欲しかった。ふるさと意識、そういうものを持ちたかった」。生まれ育った町田を愛し、59歳まで小学校の一教員として教壇に立った。律義で誠実な人物像。真摯(しんし)に子どもたちの未来と向き合った。スポーツを通じ、豊かな社会作りを目指したい-。その先にあったのがゼルビアだった。
「おおかみ少年にならなくて良かった。来るぞ、来るぞって言ってできなかったら本当にうそつきになる。みんなが本当によく応援してくれた。生きているうちにこんな光景が見られるなんて」。荒野にタネがまかれてから48年。町田の街に根付いたゼルビアの花は、国立の舞台できれいに咲き誇った。【佐藤隆志】



